なぜ、こうも嫌いなのだろう。
ここのところ、とある人から電話がほぼ毎日かかってくる。
出れば「暇だから」という。
話をしていてもその人に対してなんの興味もわかない。
話もさして面白くもない。
そしてしばらくすると「あ、用事ができたバイバーイ」と相手が一方的に切る。
私は暇つぶしのためだけに存在するのだろうか?
その人には恋人もいるし、仕事仲間だっている。
私じゃなくてそっちに言って欲しい。
リアル知人に言ってほしい。
夜中2時とか、4時とか、小人さんがかけてきたにしろ、
寝ているので私には迷惑すぎる。
その人の暇つぶしのために生きているのではない。
私はつまらないことでキレやすい。
日々反省しているのだけど、こうも繰り返されると苛々する。
「つまらないことはやめてくれ」といっているのだけど繰り返される。
繰り返されると苛々してキレてもお互い様だと思うのだけどそれは怒られる。
全く不条理だと思うのだ。
こうやって日々人間嫌いと自己嫌悪が蓄積されていく。
人間に生まれたのだから、ある程度人間のあいだで生活しないと
生きていけないのだけど、蓄積が重なりすぎていて
とっくにパンクしているのにまだまだ走り続けさせられる。
もうまっぴらだ。
個人の印象
発達障害は障害未満の障害だと思う。
たとえば「オッチョコチョイ」なんて言葉で表現される人は
私は医師じゃないので、絶対「ある」とはいえないけれど
男女・年齢問わずぼんやりとした共通点を感じる。
問題はそれが生活をするのに支障をきたすレベルなのか、である。
周りの援助なりがあれば障害と思わずに生きていくことだってできる。
私自身、結構な年齢になるまで手帳も診断もうけなかった。
ただ、そこはかとなく「生きづらい」という気持ちだけが
長く続いていた。
障害者手帳をもらったからといって、診断をうけたからといって
生まれた時からの性質は変わらない。
しかし、早くに気づいていれば対応法を工夫することができたように思う。
個人で開発したぎこちない工夫ではなく、先人たちの英知を借り
少しでも早い対応をしていれば明るく生きていくことができたと思う。
この障害のいいところは生まれたときからなので
ある意味安定しているところである。
重度のオッチョコチョイが失敗を繰り返し、鬱になるのが一番危険である。
私は鬱になってからADHDが発覚したので這い上がるのがとても苦しい。
この苦しさはリアルに泥を飲んでいるようである。
そして、今日も泥を飲む。
はてなブログ
ここはリアルな知り合いに全くお知らせしていない。
言いたい放題ネガティブ全開にできるのは
なんと気楽なところなのであろう。
欝でテンションがダダ下がりのなか
シンプルすぎるデザインも見てて気楽である。
私の文章は読んでて愉快・不愉快はあるかもしれない。
どうみても悪口全開のときもあるかもしれない。
どうか、こんな深く考えていない文章に
あまり噛み付かないようにしてほしい。
ほかの人のはてなブログを読むとポジティブな人も多数いる。
ただ、某ブログサイトのように暑苦しさがどの文章にも感じられない。
デザインのせいなのか?ブログサイト住人のせいなのか?
飽き性だからどこまで続くのかわからない。
ただ地球のどこかでネガティブしか吐けない私が存在した
証明にだけ使うことにしようと思う。
チラシの裏にさえかけないことだってあるのだ。