日々の雑感

恥の多い生涯を送って来ました。キオクとかキロクとか。感情の赴くままに。

友達の出産

友達が近々出産するらしい。

年齢も年齢だからいろいろ焦ってた友達夫婦。

念願の第一子まであと1ヶ月ほど。

 

このニュースを先日共通の友達から聞かされた。

素直に喜べない私がいた。

 

私は過去に結婚していた。

子供が欲しかったけれど、あっさりと却下され

浮気され、離婚した。(他にもいろいろあったけど)

正直、子供が好きではないけれど欲しかったから

悔しいんである。

 

生まれたときから家族って意味がわからなかった。

形骸化した家族の中でぼんやり過ごしていた。

本当の意味でつながった家族が欲しかった。

友達はもともと適切につながった家族の下に育ち、

自分が欲しい家族を手に入れることができる。

私にはどれもできない。

この差はなんだろう?

私はもう家族を持つということがそもそもできないのだろうか。

 

ただただ、ひがむことしかできない自分が悔しい。

障害と区別と差別。

以前勤めていた職場の上司は今でいう注意欠陥障害の雰囲気のある人だった。

雰囲気と表現したのは推定未診断だから。

推定未診断とはいえ、特徴通り机の上はゴッチャゴチャだったし

じっと座ってするような事務作業は見るからに苦手そうだったし

仕事の内容によっては後回しグセが酷かった。

小さな会社で直接指示をしていた社長は後回しグセがひどすぎるのに

かなり頭を痛めているようだった。

上司の「できない」ばかりを列挙したが

勿論すごい面ももった人で綺麗な英語をネイティブで話し

誰に教わるわけでもなく、業務として必要な複雑なシステムを

一人でイチから完成させた。

そのシステムは使い勝手の面では多少不便はあるものの

現在も実用稼働している筈である。

私自身は入社時、すでに診断済の注意欠陥障害であり

同じような癖・行動をしていたので

上司の行動になんとなくの理解はできた。

 

とある日、同僚が上司のことを

「(いろいろできない)アスペっぽいよね」

と侮蔑的に言ってきた。

いろいろ聞くと「会話が成り立たない」というのだ。

別の日、上司から同僚のことをなんとなく聞くと

「詰問するかのように話をしてくるので苦手だ」

というニュアンスのことを伝えてきた。

とても温厚で優しく、穏やかな上司だったが、

机以外もいろいろ散らかってるのか、

テキパキ説明するのが苦手な人だったのである。

そして勢いをもって話をされるとそれだけで

萎縮してしまう人だったのである。

どちらの言い分、仕事もわかる私はその日から

二人の間にはいって話を進めることにした。

 

その同僚は目でみえる障害をかかえている。

障害によってできないことがあることも知っている。

その「できないこと」を私が侮蔑的に言うことは可能だ。

だからといってズバリ「言っていいのか」というのは違う話である。

同僚だって努力もしたし、悔しい思いをしてるのは知ってるから。

ただ、上司のことをそのように言ったことは非常に不愉快だった。

その会社を辞めずいぶんたつけれど、同僚は私のことを

「五体満足なくせにダメなやつ」

と烙印をおしているのだろうな、と想像する。

実際、そのニュアンスのことを直接言われたから。

 

定型発達の人に発達障害の全てを理解しろとは言えない。

なぜなら、私の場合でいうと目で見えない障害である上に

発達障害本人も自分の障害をうまく説明できない苦しみがあり

それを推し量れというのは酷な話だからだ。

ただ、人へ侮蔑的に言えるほど

定型発達はそれほどまでに万能なんだろうか?

万能だというのなら、

「(診断済・未診断にかかわらず)発達障害のことを踏まえた上で

手のひらで転がすぐらいのことできないの?」

と言ってしまいそうになる。

 

世の中個性をもった人たちで構成されている。

その中に発達障害が何人かに1人ぐらいいる、それだけ、である。

障害があったからといって「できる・できない」は別の話。

誰かがどんな努力をしてもできないのを知ったのなら、

出来る人が手伝えばいい。

出来る人ができない人をフォローすることが損することと

考えるのならできない人になるか、何もしなければいいだけ。

ただ、「あいつは出来ない奴」とレッテル貼りするだけで

それ以外何もしないのはただの差別であり

レッテル貼りをした本人の本質を自ら貶めているだけだ。

 

会社をやめた今、今の文章に出てくる人たちには

まったく連絡をとっていない。

どうしようも私の力不足で上司のフォローができずに

やめてしまったのだけは後悔している。

 

コスト

生きるのにも死ぬのにもコストがかかりすぎる。

 

世間は「働け」というが

働く体力・気力がまったくないのである。

一応、仕事を探すフリはしているが本当に切実かというと

空気をすっているのが精一杯のものにたいして

仕事をするなんてことは至難の業なんである。

一方、死のうとしたら無責任に「死ぬな」という。

正直、本人の意思では生きるのも死ぬのもできないのである。

自殺行動をとったとしても「生かそう」とする。

生きるのが無理だから自殺行動にでているのに。

先日まで入院をしていたがすごいコストであった。

死にきれない本人が支払うわけなんだが。

生きてるってそんなにいいことなんだろうか?

苦しいだけの連続でしか感じられない。

それは生まれてからこっち、ずっとそんな気持ちだ。

・・・

誰に見せても仕方ないのだけど

ブログを開設してみました。

 

【スペック】

日本国内在住

年齢:昭和生まれ

性別:無性別(戸籍上は女)

特性:発達障害・二次障害で欝。

好き:猫

嫌い:人間全般。
  「できない」を連呼するわりに人の「できない」を
   理解できない定形発達は死ねばいいのにと思う。

   距離感のない人も嫌いだな。

 

 

気が向いたらときどき更新程度でやっていきます。よろしく。